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2008年11月30日 久しぶりに古代史と付き合ってみるか、という軽い気持ちでこの本を借りたのであるが、題名から連想される読書への期待を大いに裏切られた。 後に天武天皇となるあの大海人皇子が反乱を起こして、次代天皇として国の統治者となるはずの大友皇子(天智天皇の皇子)を滅ぼし、自ら次代天皇として権力を握るに至った史上名高い大乱の経過が読めるものと期待したわけである。 ところが書いてあることは、『万葉集』集中の白眉を成す柿本人麿の長歌が、壬申の乱を戦った天武天皇の皇子たちに対する挽歌ではなく、実は九州王朝のみまかりし大王(おおきみ)を歌ったものであることを実証するための一大論考だったのである。 つまり著者は、天智帝のときに大唐に乗り込んでいって大敗した白村江(はくつきえ)の戦い(663年)の直後に滅んだ九州の倭国王朝の存在をはっきりと認めているのである。何故滅んだかというと、大唐と戦ったのはそのほとんどが九州の倭国の軍勢であり、近畿の大和朝廷は戦いに参加することがなかった、と著者は述べる。 倭(やまと)の国というのは近畿の大和朝廷を指すのではなく、筑紫にあった九州の王朝を指しているというのである。 日本史の教科書にはその欠片も記載されていないことである。 確かに大陸側の史書には、倭の名があり、距離の記述などからしてそれが九州の地を指していることは知られていたことであるが、近畿の大和朝廷の宮廷歌人と目されてきた柿本人麿が筑紫に下向したとき、白村江の戦いに参加して虜囚となった倭国の大王明日香皇子(筑紫君薩夜麻)を偲んで歌ったものであると結論している。 この結論はとんでもない問題を孕んでいる。 というのも、万葉集が編まれて以来、天武帝の皇子たちを歌ったとされる万葉集集中の人麿白眉の歌が、九州王朝の天子をうたったものであるということになると、万葉成立から現代までの1,300年に亘る契沖、真淵、宣長を経て現代に至る著名な万葉学者たちの解説、解釈がことごとく否定されることになるからである。 この本の作者古田氏は、自らの説の畏れ多さに慄きつつも、自説が真実であることを確信しており、例え一万年後であろうとも、自説の正しさが証明されるときがくると述べておられる。 何故九州の筑紫と奈良の大和の混同が起きたかということに対しては、それは明らかに現天皇家に繋がる大和朝廷の権威を高め、全ての記事が大和朝廷に対する賛歌でなければならないと権力側は考え、本来は九州王朝の天子に関する記事であったものを換骨奪胎して、記事(歌)を作り変えたと作者はいう。 さらに厄介なことに、筑紫には大和の地と同じ地名がいくつも存在するということであり、そのことが作り変えに有利に働いたわけである。例えば飛鳥、吉野という地名が筑紫にあるのである。 学問的で厳密な実証を積み重ねてゆく論証をたどってゆく内に、私はかつて哲学者の梅原猛が聖徳太子とその一族の死の真相に迫る『隠された十字架』や柿本人麿の死の謎に挑んだ著作を読み進めたときの興奮を蘇らせながらこの本を読み終えた。 すでに80歳を超えておられる作者は、数十年来の主張に対して、学会からも研究者からも自説に対する何の反応もないと嘆いておられるが、一万年後とは言わないまでも、その勇気ある説がせめて古田氏が存命されている内に、万葉学者によって取り上げられることを期待する次第である。 |
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